KG002100007793 |
『本朝二十不孝』「今の都も世は借物」結末部解釈をめぐって : 漢文帝説話との比較を中心に |
井原西鶴『本朝二十不孝』「今の都も世は借物」(巻一ノ一)の結末において、篠六が父親を毒殺すべく気付を差し出しながらも、思わず毒試しを行い息絶えてしまう。該当箇所については、『二十四孝』「漢文帝」説話の利用が指摘されてきたが、その利用方法については議論が分かれていた。だが、該当箇所を詳細に検討すれば、篠六の外見上の行為は漢文帝そのものの孝行と評すべきものであり、一方、内実は漢文帝とかけ離れた不孝と評すべきものであると理解される。すなわち、篠六は父親への不孝を働こうとすればするほど、周囲には親孝行と誤解される行為を取り続けていたのである。西鶴は外見と内実の埋め難い亀裂を、短い結末部の中に、篠六の神仏参詣↓父親のめまい↓篠六の服毒死・父親の蘇生と目まぐるしい変転を見せながら、巧妙に詰め込んだのだ。外見と内実との隔絶は滑..な効果を読者に与える。本稿は、西鶴が本章段に仕組んだ滑..な表現効果に迫るものである。 |
Departmental Bulletin Paper |
日本語 |
浜田泰彦 |
京都語文 |
佛教大学国語国文学会 |
13424254 |
21 |
154 |
164 |
2014年11月29日 |
https://bukkyo.alma.exlibrisgroup.com/discovery/openurl?institution=81BU_INST&vid=81BU_INST:Services&rfr_id=info:sid%2Fsummon&rft_dat=ie%3D21299604520006201 |
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/KG/0021/KG00210R154.pdf |
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_KG002100007793 |
公開中 |