DO003000006364 |
徳島城下における「溢れ者」の横行とその対策 : 『異事旧記』を素材として |
本論の史料として使用した「異事旧記」は、小杉榲邨編の『阿波国徴古雑抄』に集載されたもので、徳島藩の慶安?元文期約九十年間における藩士に関わる喧嘩口論や無礼討ちなど、七十五件の異変を選び編集した記録で、純然たる「溢れ者」の事例は二件を挙げるに過ぎない。しかし他の大半の事例も藩初特有の藩政下に生じた現象で、「溢れ者」を輩出する武家風俗として注目すべきであろう。元和?慶安期の徳島藩では軍事体制優先の藩政機構から経済優先の官僚機構に移行する初期藩政改革下にあった。この初期改革は相対的に中下層家臣の城下における地位を低下させたが、それに対する不満を行動に表現しようとするものであり、いま一つは参勤交代の制度化で、江戸詰めする若い家臣が江戸市中を横行する旗本奴の風俗を真似たという一面もあった。『異事旧記』では寛文・延宝期の「溢れ者」の事例に取り上げる熊谷馬左衛門は、城下の助任橋の擬宝珠を持ち帰ったり、宴席で抜刀して乱舞するなどの行為を「殊外溢者」と記している。既に藩は寛永期から旗本奴を真似るような行為を禁じる御触書を出して取締ったが、一向に効果を挙げられなかっただけでなく、「溢れ者」は増加の一途を辿ったものと考えられるが延宝期、つまり藩体制が確立する段階になると取締りも本格化し、馬左衛門には「大成溢段々相顕れ、切腹被仰付、親権左衛門御暇付候」と厳科を課し、つづいて「右類様之者有之候得共、何之被仰出も無之、其後溢自然と相止申候」と記されているように、馬左衛門を「溢れ者」に対するターゲットとしているものと考えられる。その後も溢現象は絶えなかったが、元禄期に至って藩では、溢れ行為に対し「元禄年中御改有之穢多末下ニ御付ナサレ候由」とするようになると、やっと終焉を迎えることになった。この段階をもって徳島藩の支配体制が確立したと考えることもできるだろう。その後は元禄期にかけて藍経済の発展と徳島城下町の整備がすすむが、正徳・享保期に藍の商況が停滞期を迎えるにつれて、武家に対する下層町人の無礼な行為が多発し、藩もその取締りに取り組まなくてはならなくなってくる。こうした下層町人の振舞いは「溢れ者」の町人社会に対する転移現象ともいえるだろうが、いずれにしても「溢れ者」輩出の背景を明らかにすることは、今後の重要課題であると認識している。 |
徳島城下再編成, 参勤交代制, 初期藩政改革, 衣料革命 |
Departmental Bulletin Paper |
日本語 |
三好昭一郎 |
MIYOSHI Shoichiro |
佛教大學大學院紀要 |
佛教大学大学院 |
13442422 |
30 |
1 |
16 |
2002年03月01日 |
https://bukkyo.alma.exlibrisgroup.com/discovery/openurl?institution=81BU_INST&vid=81BU_INST:Services&rfr_id=info:sid%2Fsummon&rft_dat=ie%3D21294389010006201 |
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DO/0030/DO00300R001.pdf |
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_DO003000006364 |
公開中 |